新訳だったらなお良かったのだが、それはさておき何度目かの復刊。
前回復刊した時の表紙も良かったが、今回の表紙もかっこいい。
原題は『The World of Null A』で邦題は『なるエーのせかい』と読ませる。つまり「Null」が「なる」と発音するのだ。このおかげで僕は今でも「Null」を「ぬる」ではなく「なる」と発音してしまうことがある。
『非Aの世界』を初めて読んだのは中学生のころだったから今回再読するのは30何年ぶりだろうか。
ヴァン・ヴォークトの一般受けしない方の傑作だから、さすがに再読して面白いと感じるかどうか不安でもあった。とにかくどんな内容だったかすらも忘れてしまっているので初読に近い読書である。
物語が始まって10ページも進まないうちに主人公ギルバート・ゴッセンは自分の記憶が嘘で塗り固められているということに気がつくという展開の速さ。そもその物語の背景となる部分もろくに説明なしにどんどんと話が進んでいくので展開は早い。主人公は奥さんが亡くなって、<機械>が行なっているゲームに参加するために<機械>市にやってくるのだが、亡くなったと信じている奥さんは生きているうえに大統領の娘で、どう考えても主人公とは何の接点もないというか雲の上の存在。自分が直前まで生活していた町ですら本当に生活していた町なのかも怪しいわけで、自分が行くべきところはもちろん帰るところもなくなってしまう。
僕にとっての『非Aの世界』はアルフレッド・コージブスキーの一般意味論を強引に拡大発展させた非A哲学であり、小数点以下20桁まで対象と相似させることで空間転移させることができたりという部分なのだが、一般意味論はさておき、小数点以下20桁まで対象と相似させる能力に関しては中盤を過ぎないと登場しない。もっと頻繁に使われるのかと思っていたのだが多分このあたりは続編の『非Aの傀儡』と混同してしまっているのだろう。ということで僕が面白いと思っているのはひょっとしたら『非Aの世界』の方ではなく続編の『非Aの傀儡』のほうなのかもしれない。
そもそも、対象となる物体を自分の頭のなかにある予備脳の中で小数点以下20桁まで相似させると同一とみなされ、その場所へ転移することができるというのはよくよく考えると意味がわからない。そもそも頭のなかで相似するというのは何を相似させるのだろうか。しかし、読んでいる間はハッタリが効いているのでそのハッタリに騙されるとまったく気にならないどころか心地よささえ感じられる。
もっとも、再読してみると記憶にあるほど面白いわけでもなかったのだが、それは物語の展開を楽しむ読み方をしたせいかもしれない。中学生のころは物語の展開よりも、作中に散りばめられた擬似哲学や擬似思想といったヴァン・ヴォークトのハッタリの部分の面白さに惹かれてしまっていて、物語の部分の物足りなさは適当に補完して読んでいたのだろう。
コメント