書店で一冊の本を手にとっている少女を見かけた。
カップラーメンを啜っているとかだったら別だが、書店なのだから、本を手にとっているのはなにも不思議なことではない。
しかし、書店の中で一番人の多くあつまっている場所は雑誌の置かれている場所だ。
昔、まだ漫画がビニールでシュリンクされる前の時代だったなら、漫画のコーナーにも人が多かっただろう。
しかし、それに比べると単行本の置かれている場所は閑散としている。文庫本のコーナーはそれに比べるとまだましだけれども、ライトノベルに関してはビニールでシュリンクされるようになってから人だかりが消えたし、文庫本にしても日本人作家の場所と比べて、海外の作家の翻訳物が置かれている棚の前になど人のいる時は少なくなる。
その少女のいた場所は新潮文庫のしかも海外作家の置かれている棚の前だった。
そうなると、日本人作家も海外の作家も区別なく読む僕としてはどんな本を読んでいるのか興味を持ってしまう。
決して不純な気持ちではないと言い切るつもりはないけれども、例えば、前を歩いている人の後ろ姿がすらりとして美しかった時、早歩きで追い抜いて、その人の顔を見てみたくなる衝動に似ているといえばいいだろうか。
まあそれはともかくとして、自分が50歳近いむさ苦しいおじさんであることも自覚しているので、近寄って覗き込むような節操のない行為などするつもりもなく、後ろを通り過ぎる際にちらりと見る程度で抑えるようにした。
幸運なことに、タイミングよく彼女は手にとった本を棚に戻したのでどんな本だったのかを確認することが出来た。
『フラニーとゾーイー』
サリンジャーである。
書店に通うようになって37、8年経つが、未だかつてサリンジャーを書店で手にとっている人を見かけたことがない。なんだか出来過ぎたシチュエーションだ。
僕達夫婦には子供がいないのだが、自分の娘がいたとして、その子がサリンジャーを手に取るような子供だったら父親としてはなんともいえない嬉しさがこみ上げてくるよな、などと思わず妄想の世界に浸りそうになってしまった。
子供ではなく自分の孫でも構わない。
僕達夫婦に子供がいないことは妻が病気だということを考えると、ある意味幸運なことだったと思っているのだが、その一方で子供がいたら別の幸せがあったかもしれないと考えてしまうこともある。
多分、この先、そういうふうに考えてしまうことは多くなるだろう。
それは、悲しみをともなって。
活字のほとりで


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