夢のまた先の夢の続き


昨日の記事の続きである。
人工知能の分野に機械学習という概念がある。
簡単にいってしまえば、人がどのように物事を学ぶのかということをコンピュータ上で再現させるための手法のことだ。
人が物事を学んでいくその先に知能というものがあるのではと考えられている。
IT分野の方面で近年なにかと話題になっているビッグデータの解析にもこの機械学習という考え方が使われているのだが、僕は少し違うことを考えている。
それは昨日の記事で書いた意思決定支援ソフトウェアが目指しているものに対する別のアプローチでもある。
人は何をしなくても歳をとり、老いてそして脳の働きも記憶も衰えていく。あるいは病気や怪我で脳に障害を負ってしまうこともある。
一方で高齢化社会というのが今後の社会問題の一つとして存在する。更には少子化という問題も重なってくる。老人ばかりでしかも人口が減っていくなかで、今と同程度の生活水準を保つというのは困難だ。
もちろん解決策というのは幾つもある。
江戸時代にあった、長屋というような生活形態は少子高齢化社会における理想的な社会の一つだと思っているが、そういった方向とは逆方向へと向かっている今の社会をそちらへ捻じ曲げるというのは難しくもある。
そこで漠然と僕が考えているのは、個人個人の物の考え方というものをシミュレートあるいは再現することのできる仕組みがあったとしたら、衰えていく思考の手助けをすることができるのではないだろうかということだ。お互いに助け合う社会ではなく個人が1人でも自立生活することが可能な社会という方向だ。
個人個人の生活行動を機械学習によって学習させていくことで、その人の思考というものをコンピュータ上でシミュレートさせるのである。
それはその人の分身でもあるので他人の考え方ではない。
歳を取れば頑固にもなる。人の意見よりも自分の意見を大切にしたくなる。そういう時に自分の思考をシミュレートさせたコンピュータであれば他人の意見よりも受け止められやすくなるのではないだろうか。あるいは、認知症における「物取られ妄想」というものがある。本人は本当に物を取られたと信じているが、実際は異なる場合が多い。そしてその犯人とされるのは殆どの場合家族である。そういう場合にシミュレートされた思考ツールが相互の間に入ってコミュニケーションの仲介をすることができないだろうかとも考えている。認知症の人の思考をうまく変換させて、家族に対して納得できる、あるいは口では犯人扱いしているけれども本当はそうは思ってはいないのだということを伝えることができるだけでも少しはお互いに楽になるだろうと思うのだ。
もちろん、個人の行動データから思考をシミュレートするということが簡単にできるとは思ってはいないし、また、それが実現できるとしても人の思考ではなく個人の思考を再現させるということの倫理的な問題やそこから発生するさまざまな社会問題という部分も踏まえると、そんなものは作らないほうがいいという結論になるかもしれない。
やみくもに繋がる世界ではなく、個人というものを確率させたうえでの繋がる世界というものを夢想している。

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