スパルタカスな人


最初に断っておくとこの記事のタイトルではスパルタカスという言葉をスパルタ教育的なという意味で使っているが、本来はスパルタカスとは人の名前でスパルタ教育とはまったく関係ない。スパルタクスと表記する場合もある。スパルタカスな人という言葉のイメージは僕にとってはスパルタ教育をする人というイメージと結びついているのでこんな言葉を使ってみたくなった。
父のスパルタ教育的器質に関しては以前にも書いたが、今でも忘れられない出来事がいくつかあってその一つが泳ぐことだ。
運動音痴の僕は泳ぐことも苦手、というよりも泳ぐことが出来なく、ただでさえ苦手な体育の時間の、さらに水泳の季節になると憂鬱でしかたがなかった。
自転車の時にも書いたけれども、僕はどちらかというと頭のなかでそのことができるというイメージが完成されないと出来ない事が多い。
泳ぐということは僕にとってまったくイメージがわかない行為の一つで、そもそも息を止めるという苦しい行為そのものが頭のなかで泳ぐというイメージを浮かび上がらせることを妨げる。喩えるならば、魔法使いが魔法を使う時に呪文を唱えなければいけないのだが、呪文を唱えようとすると息苦しくなって唱えることができない、というような状況だ。
そんな状況を見かねた父は僕を海に連れて行き、僕を抱え上げ、そして脚もつかないような場所めがけて僕を放り投げた。
父は自分のお兄さんに川に連れて行かれて、同じことをされ、そして泳ぎを覚えた。自分が出来たことなのだから息子である僕もできるだろうと父なりに考えた結果だったのだろうけれども、呪文を詠唱しなければ魔法を使うことの出来ない僕は、パニック状態に陥り、浮かび上がることすらできず溺れた。
いつまでたっても溺れたままの僕を見て父も自分の間違いに気づいてくれたようだが、自分のスパルタ器質の方法論が息子の僕には役には立たないという間違いまでは気づいてはくれなかったようだ。
で、泳ぎに関してはその後どうなったかというと、父を超えるスパルタ方針でかつ、必ず泳ぐことができるようになるということで有名な水泳教室に通わされ、呪文を唱えなくても初期魔法程度ならば使うことができるようになった。
ある意味、父の教育方針は間違ってはいなかったともいえる。僕の心のなかに父ならば助けてくれるかもしれないという甘えがあったのに対して、他人は助けてくれないかもしれないという恐怖心と自己防衛の本能が泳ぎへと結びついたのかもしれないからだ。

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