やはりラファティの本は表紙が横山えいじの絵だとなんだか安心する。
それは安心して笑っていいよと言われているような感じでもあり、この本に収録されている話は法螺話がほとんどだよと言われている感じでもあるからだ。
一部と二部に分けられて、前半は確かにシンプルで一般的なイメージのラファティの法螺話であり、小手調べというか取っ掛かりとしてはちょうどいい。
でもなんとなくこれはラファティじゃないなという違和感がどこかにある。
その違和感は二部の作品を読み始めると消え去って、二部に収められた方がラファティっぽいなという感じに変わるのだけれども、わけの分からなさは増大する。
ブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功したのは日本の高柳健次郎で、これは1926年のことなんだけれども、ラファティはそれよりも53年も昔の1873年にテレビドラマを行っていた人物がいると法螺を吹く。それがこの本の巻末に収録された「1873年のテレビドラマ」で一読すると確かにむちゃくちゃな話だ。
でもラファティは根底となる設定の部分でまるっきり嘘をついているわけではない。ブラウン管によるテレビは高柳健次郎が最初だったけれども、機械式テレビはもっと前から研究されていたし、テレビジョンの開発が始まったのは1873年のことだ。
しかし、そこからラファティは空想力を働かせるという以前にとんでもないムチャぶりでもってオーレリアン・ベントリーという人物が作った13本のテレビドラマのあらすじを語りだす。
伊藤典夫は解説で、この話は理解に余ると書いていたけれどでも理解できなくっても十分に楽しい話だ。
もっとも楽しい話ばかりではなく、じんわりとくる話もある。それは、伊藤典夫の解説も同様で、浅倉久志が翻訳し、そして自分の理解に余る作品をこの本のトリに持ってきたことでこの本が浅倉久志に捧げられた本であることがわかり、浅倉久志に対する想いが伝わってくるのだ。
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