どう書けばいいのだろうか、とにかく変な物語だった。
そもそも、1900年代前半にロシアで活動していたポーランド系貴族出身の作家で、200編あまりの作品を発表していながらも、生前は殆ど書籍という形になることはなく、そのせいでペレストロイカの時期まで忘れ去られていた作家というだけでも変わった経歴なのに、共産主義を批判的に描きすぎているせいもあってというだけではないにしろ、作品の発表の形式は朗読という形をとることがほとんどだったというのがすごすぎる。もちろんこうして本という形になっている以上、それぞれの作品は紙に残されていたはずなのだが、こうして後世になって陽の目を見たということは人々の口から口へ耳から耳へと語り継がれて生き延びてきたという事でもある。
巻頭の「クヴァドラトゥリン」は、とある薬によって4平方メートルしかないアパートの部屋が日に日に広がり続けてしまうという要約するとこれだけのドラえもんの話に登場してもおかしくない話なのだが、部屋の広がりが制御不能で、無限に広がり続けていく一方で、主人公の住む世界はモスクワで、そして一人の人間に割り当てられる居住スペースの広さは厳格に定められていて、違反すれば懲罰が待っているという世界である。主人公は部屋が広くなって喜んでいたら、自分の住む現実の問題と直面しなくてはならなくなり悲劇へとまっしぐらに進む。
表題作になると、恋人の瞳の中に小さな瞳孔人を見つけ、そして主人公もまた瞳の中に入り込んでしまうという話なのだが、次から次へと現れるイメージの世界に物語の流れなど無縁で、作者の奇想と屁理屈と論理に翻弄されてただただ唖然とするしかない。神は細部に宿るというが、シギズムンド・クルジジャノフスキイの物語は細部しか存在しないという感じでもある。
この雰囲気はどこかで読んだことがあるなあと思っていたら、円城塔に行き着いた。円城塔が1900年代前半にロシアで作家活動していたとしたら、こんな話を書いていたのかもしれない。
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