物語にとって、どのように読まれることが幸せなのだろうか。
様々な読み方ができる物語というものが存在する。
もっとも、たいていの物語は複数の読み方が可能で、もちろん、作者が想定する読み方というものがあり、それ以外の読み方は作者にとって好ましくない読まれ方だったりする。そのいっぽうで、どのように読まれても構わないという作者もいる。
この物語を読みながら、ついついそんなことを思ってしまうのは、この物語にはいくつもの読まれ方が存在し、読むときにはそのひとつを選択して読むべきなのにどれか一つに絞りきれずに読んでしまうからだ。
円城塔が、このようにもストレートな、と言ってしまうには少し語弊があるけれども、それでもこのようなエンターテインメントの物語を書くことができたということも驚きだったし、そしてそれが伊藤計劃だったらこう書いていただろうと読み手が想像するレベルの物語であったことも驚きで、その一方でやはりこの物語は円城塔の物語だったと気付かされることも驚きだった。
この物語が完成するまでに三年かかったそうなのだが、それだったならば、もう三年待てば、伊藤計劃+円城塔の新作がさらに出てもおかしくない気もする。
それはともかくとして、この物語のジョン・H・ワトソンがどのようにして、シャーロック・ホームズのジョン・H・ワトソンにつながるのか、という疑問が最初から渦巻いていたのだが、ひょっとしたらそのあたりはうやむやなままで終わらせるのかと思ったらしっかりと解決させているあたりや、フランケンシュタインつながりでブライアン・オールディスに結びつくあたり、深読みしようと思えばとことんまで楽しむことができるのはやはり円城塔だからなのだろうと思った。
そう思うと、次は伊藤計劃から離れた円城塔の純粋なエンターテインメントな物語を読みたいのである。
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