神林長平がデビューしてからいつのまにか30年以上も経ってしまったんだね。
純粋な短編集としてはものすごく久しぶりな感じがする。
それだけにちょっと期待をしていたのだけれども、期待していたよりも薄くてちょっとだけがっかりした。
「ぼくの、マシン」、「切り落とし」、「ウィスカー」、「自・我・像」、「かくも無数の悲鳴」ときて、最後に「いま集合的無意識を、」が来る。
ある意味、最初の五編は最後に待ち構える「いま集合的無意識を、」に対して奉仕するためだけに存在しているということもできる。
「ぼくの、マシン」は<雪風>シリーズ、「ウィスカー」は『七胴落とし』のスピンオフのようなものであり、悪くはないけれども、特別良いという出来でもない。作者が今まで書き続けてきたことばかりだ。
しかし、最後にきて、それが大きな力に転換される。
伊藤計劃を失ってまだ癒されない人たち、3.11の震災でまだ癒されない人たちに対して、神林長平は語りかける。
ベンジャミン・リベットの実験から始まって、意識受動仮説という仮説がある。
簡単にいえば、人の意識とは、無意識の部分が決定した事項を認識する装置に過ぎないという考え方だ。
神林長平はtwitterなどのネットコミュニケーションツールを人類の集合的無意識を顕在化するテクノロジーとして捉える。集合的無意識を意識として認識する手段を得ようとしているのではないかと。
伊藤計劃が残した『ハーモニー』はある意味、呪いとなった。それは伊藤計劃が死に対して無自覚ではいられなかったことと関係しているのだろう。つまり、伊藤計劃は生きながら同時に死者でもあったのだ。
いっぽう神林長平は伊藤計劃とは大きく異なっている。神林長平には猫がいるのだ。<敵は海賊>シリーズのアプロがその最たる存在になるのだが、避けようも無いとてつもない大きな力に対しても能天気に立ち向かう力の存在を常に神林長平は登場させている。
どちらが良い悪いという問題ではないのだが、くじけそうなときにはこの存在は大きい。
神林長平がこの先、どんな世界を見せてくれるのか、はたまた、この現実の世界を言葉によってどんな風に壊してくれるのか、不安など微塵も感じさせない力強さがここには存在している。
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