強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない。
これは一般的に、レイモンド・チャンドラーの遺作となった『プレイバック』という小説の中で、主人公のフィリップ・マーロウが言った台詞だと言われている。
がしかし、僕にはこれが不思議で仕方がないのだ。
というのも、日本で翻訳されたチャンドラーの『プレイバック』は今のところ公には清水俊二訳しか存在していない。そして、清水俊二訳による上記の科白はこうなっているのだ。
しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きていく資格がない
言葉というのは引用されるたびに一人歩きしてしまうことはよくあることで、小出裕章助教などは、
モーリス・チャンドラー(原文ママ)という米国の作家がいて、彼の遺作にプレイバックという小説があるのですけれども。そのプレイバックにチャンドラーが、『強くなければ生きていられない。優しくなれないなら生きている価値がない』と書いているんですね。
と言っていたりする。
しかし、「しっかり」が「強く」にまで変わってしまうものなのだろうか。
僕がマーロウのこの科白を知ったのは、石川喬司の『SF・ミステリおもろ大百科』なのだが、この中では、
タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない
と紹介されていた。これは後述する生島治郎による言葉である。
この言葉にしびれて、『プレイバック』を読んだら、「タフ」ではなくて「しっかり」となっていてがっかりしたことは今でもしっかりと覚えている。
しかし、それだけに翻訳された『プレイバック』を読んだことのある人であれば、マーロウのこの科白は、「強く」ではなく「しっかり」であり「優しくなければ」ではなく「優しくなれなかったら」と言うだろう。
そもそも、この科白は丸谷才一がエラリー・クイーン・ミステリー・マガジンでフィリップ・マーロウについて書いたエッセイの中で採り上げなかったならば注目されることもなかったかもしれない科白だ。
実際に『プレイバック』を読んだことのある人ならばわかるだろうけれども、『プレイバック』じたいそれほど傑作でもないし、この科白もそんなに名科白とも思えない言葉なのだが、それを抜き出して名科白のように光らせてしまうのが丸谷才一の凄いところなのだろう。
そして、当時、エラリー・クイーン・ミステリー・マガジンの編集長だった小泉太郎が生島治郎というペンネームでハードボイルド小説を書く作家となり、生島治郎流のハードボイルドを説明する言葉として昇華させたのが、
「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」
なのである。
しかし、ここまでならばこの科白がこんなにも有名にはならなかったはずだ。
この科白がミステリにもハードボイルドにも興味の無い人たちの間までも浸透したのは、『野性の証明』という角川映画でキャッチコピーとして使われたせいだろう。
この映画の製作者である角川春樹が、生島次郎の言葉に「男は」という言葉を追加して、
「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」
と映画の宣伝文句として使ったのである。
確かにこの映画が公開された当時、マーロウの科白とは知らなかったけれども、
「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」
という言葉は広く浸透していたはずだった。
が、今現在、「しっかり」でもなく「タフ」でもなく「強く」が浸透しているのだ。いったい、どこで「タフ」から「強く」へと変わっていったのだろうか。
この話題はまた後日に続く
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