箱テーマのアンソロジー

以前に、「続編」をテーマにした架空のアンソロジーというものを考えてみたことがあった。
その時にもう一つ、おもしろそうなテーマが浮かんだのだけれども、いざ作品を選んでみようとするとなかなか思うような作品が思いつかず、しかも途中で作品リストを紛失してしまったりと、一時はあきらめてしまった時もあったけれども、所詮はお遊びと思いなおして気軽に考えていったらなんとなく作品が揃ってきた。
それが「箱」をテーマにした今回の架空のアンソロジーだ。

「箱」星新一
箱というのは不思議だ。
基本的に、箱というものは何かを入れるものであり、箱を手に入れるということは、その中に何かを入れるために手に入れることなのだが、箱を手に入れた時点で既にその中に何かが入っている場合もある。
既に何かが入っている場合、箱は、何かを入れるものではなく何かを隠す役目を持つこともある。
何かが入っている箱を手に入れ、そして一番大事なときに開けなさいと言われたら、あなたはいつその箱を開けるのだろうか。
星新一の「箱」はそんな物語だ。
「箱の中にあったものは?」リチャード・マシスン
主人公の少年は、あるとき謎の老人に、今から言う場所まで行ってそこの地面を掘ると大きな箱が出てくる。その箱には何が入っていると思う。という問いかけを受ける。もちろん少年はその中身など知らない。すると老人は、答えを知りたければ自分で掘って確かめてごらん、びっくりする物が入っているよ。と言う。老人の言葉が気になった少年は箱を掘り出し、蓋を開けてみる……。
星新一の「箱」の場合、中身がなんだったのかという興味と、いつそれを開けるのかという二つの興味を持つ物語だったけれども、リチャード・マシスンの「箱の中にあったものは?」は中身がなんだったのかということのみが焦点となる。
マシスンのバカバカしさが炸裂する物語なのだが、よくよく考えてみると与えられた情報の範囲内で考え得るもっともびっくりする中身だともいえる。
「なんでも箱」ゼナ・ヘンダースン
少女はいつも教室で一人、自分の手の中を見ていた。少女の手の中には彼女しか見ることのできない「なんでも箱」があったのだ。
箱だからといって何かを入れなければいけないわけでもなく、そして何かが入っていなければいけないわけでもない。
そこに箱というものが存在することのみに意味があり、そこに箱があるということで救われる事もあるのだ。
ゼナ・ヘンダースンの「なんでも箱」は、傷つきやすい多感な少女と、その彼女を現実に向き合わそうとする教師の交流の物語だ。
「シュレーディンガーの猫」ジョージ・アレック・エフィンジャー
はっきりとしないあやふやな物が入っている話ばかりになってしまったので、ここで具体的なものが入っている話に移ることにしよう。
箱の中に猫が入っている。この箱の中の猫は生きているのか死んでいるのか。という事柄が問題になるのは「シュレーディンガーの猫」だが、ジョージ・アレック・エフィンジャーの「シュレーディンガーの子猫」では生きているか死んでいるかの二つの選択肢だけではなく、一人の少女の運命が次々と分岐していく様が描かれる。
シュレーディンガーが小児性愛者を持っていたという事柄もふまえて見るとこの題名はなんとも絶妙な題名だ。
「ボロゴーヴはミムジイ」ヘンリイ・カットナー
中に入っている物が猫だとやはり少し物騒だ。では箱の中に入っているのがおもちゃだった場合はどうなるのだろう。
その箱は遙か未来から過去に捨てられた箱。未来の住人が使わなくなったおもちゃを入れて捨てたのだ。しかし、未来の住人にとっては子供のおもちゃでも、その未来というのが現在からもの凄く文明が発達した未来だったとしたら、現代の人間にとって、それでもおもちゃといえるのだろうか。発達したのが技術だけならまだしも、思考形態まで変化してしまっていたとしたら……
ヘンリイ・カットナーの「ボロゴーヴはミムジイ」はそんな未来のおもちゃ箱を拾ってしまった子供たちの物語だ。未来のおもちゃの使い方を学習した現代の子供たちは、その思考形態まで変化していってしまう。
「箱」シオドア・スタージョン
箱というのは何かを入れるものだが、入れただけで終わるわけでもない。何かを運ぶために箱に入れる場合もあり、その場合は、運ぶということまでもが箱の使命となる。
シオドア・スタージョンの「箱」は植民惑星で箱を運ぶ使命を受けた子供たちの試練の物語であると同時に子供たちの成長の物語でもある。
もちろん箱には重要な物が入っており、無事使命を果たした子供たちが、その箱の中身の正体を知ったとき、そこにこめられた物の大きさと暖かさと、それを入れた人の優しさを感じ取る。
「ボール箱」半村良
何かを入れるための箱。それ故に中身が主役であり箱は主役とはなりえない。
しかし、箱に意識があったとしたら、箱はどんなことを考えるのだろうか。
箱として生まれたからには何かを入れて欲しい。物を入れられてこそ、生きる喜びがある。そんなふうに考えるのかも知れない。
半村良の「ボール箱」はそんな箱の視点からみた奇妙な物語である。
「棺」ロバート・リード
今度は箱がひたすら中身を守ろうとする話だ。
星間旅行の事故により乗客達は船外へと放出されてしまう。しかし乗客達はライフスーツにくるまれており、ライフスーツは核融合炉と最新鋭の高性能リサイクル装置が搭載されているため、その中にいる限り完全な自給自足が可能だった。
ロバート・リードの「棺」は、そんなライフスーツの中で生存する男の生涯の物語だ。ライフスーツにはコンピュータが搭載され、あらゆる手段をもってして男の生命を維持しようとするのだが、いくら努力しても生命には限りがあり、やがて男は死んでしまう。
でも生命は途絶えたわけではない。実はこの物語の面白さはそこから始まるのだ。そして物語の最後に箱の蓋が開く。
「恐竜たちの方程式」ジェイムズ・パトリック・ケリー
箱には大きさというものがあり、箱の大きさ以上の物は中には入れることができない。
宇宙船というものを一つの大きな箱として見てみたとする。そしてその宇宙船の中に密航者がいたらどうなるのか、というのはトム・ゴドウィンの「冷たい方程式」だが、ここではその物語のアップデートバージョンとでもいうべき、ジェイムズ・パトリック・ケリー「恐竜たちの方程式」の方を選んでみた。
人類は爬虫類型の異星人と遭遇し、彼らから超高速転移技術を貰う。その技術は、全身をスキャンしてデータ化したのち、人工のワームホールを開いてその情報を転送して転送先で物質化する技術だ。物を直接移動させるわけではなく複製を作るのである。したがって転送元の物質は転送が無事完了した時点で消滅させなければならない。転送させる物が人間であったとしてもルールは同じで、それは異星人の定めたルールである。
ある時、転送事故が起こり、転送が成功したにもか変わらず転送元の人間が残ってしまった。転送装置という箱の中で……。
異星人が定めたルールどおり、箱の中を空っぽにさせるべきなのか、ルールを無視して助けるのか。それともルールを無視せずに助ける方法はあるのだろうか。箱の中身をどうするかという問題である。
「おとなの聖書物語17:ノアの方舟」ジェイムズ・モロウ
助けるといえば、箱は助ける為にも使われる。
箱というには大きすぎるけれども、旧約聖書に登場するノアの箱舟は大洪水から善良な生命を助ける一つの箱なのだ。
ジェイムズ・モロウの「おとなの聖書物語17:ノアの方舟」は、聖書に登場するノアの方舟の物語を、ノアとは違う別の視点から語りなおした物語なのだが、その視点というのが方舟に紛れ込んだ一人の娼婦という時点で物語はまともに機能しなくなってしまう。
乗るはずのなかった人物が一人乗り込んでしまったことでノア一家に不協和音が鳴り響き、「神と共に歩んだ正しい人」であったはずのノアの運命も狂い出す。もっとも、正しい人だからこそ大洪水の中を漂流していた人間を助けてしまったのはやむを得ないことなのかもしれない。
「箱舟はいっぱい」藤子・F・不二雄
彗星が地球に衝突することがわかり大騒動となるが、接近しても衝突まではしないという発表によって大騒動は治まる。しかしそれは嘘で、一部の国民だけを救おうとする秘密のロケット脱出計画を隠す為のものだった。
藤子・F・不二雄の「箱舟はいっぱい」は彗星の衝突による人類滅亡という終末感ただよう物語だ。
「組み合わされた手」ジャック・ウィリアムスン
箱といえばノアの箱舟と同じくらいに有名な箱がある。ギリシャ神話に登場する「パンドラの箱」だ。
ジャック・ウィリアムスンの『パンドラ効果』はパンドラの箱をテーマにした短編集なのだが、その中から一編。
ある時、ヒューマノイドによる奉仕を世界中の人間に行き渡らせることを目的とした、ヒューマノイド協会という団体がウィングIVという惑星からやって来る。一見すると彼らには別の目的があり、うまい話には裏があるという展開をするかのようにみえるが、この物語はそんな展開はしない。彼らは純粋に人類に奉仕するためだけに行動をするのだ。やがて一人の男が主人公の前に現れ、この出来事に対する真相がわかり始めるのだが、そこからがこの物語の本当の面白さの始まりであり、この物語が禁断の箱を開けてしまったパンドラの立場からの物語であることに気づかされる。この話におけるパンドラは、開けてしまった箱を元通りにしようとするのだが、開けてはいけない箱を開けてしまった代償は想像以上に大きいのである。
ジャック・ウィリアムスン自身、このアイデアが気に入ったのかそれともアイデアの展開の仕方に物足りなかったのか、その後、『ヒューマノイド』という題名でこの物語を長編化している。
「Potiphee, Petey and Me」トム・リーミィ
もう一つ、パンドラの箱をテーマにした短編にハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」があるが、さすがに有名すぎるのでこれは外して、ハーラン・エリスンがらみの短編を一つ。
ごくまれに、出すと予告しておきながら一向に出る気配のない本がある。その最たるものはハーラン・エリスンが編んだ『The Last Dangerous Visions』だろう。どこまで作品が揃っているのかすらも不明だが、その中にトム・リーミィの「Potiphee, Petey and Me」がある。
やっかいなのはこの本が出ないかぎり、ここに収録された短編は他の本に収録できないことだ。クリストファー・プリーストはエリスンと戦って、収録予定だった短編を自分の手に取り戻したけれども、トム・リーミィは既に亡くなっているのでそんなこともできない。
本というものを、物語を閉じこめた箱と考えると、『The Last Dangerous Visions』は永遠に開けることのできない箱で、トム・リーミィの「Potiphee, Petey and Me」は永遠に取り出すことのできそうもない中身だ。

以上が収録作だが、ここまでくれば装幀にも凝りたいところだ。したがってこの本は箱入りでなければならない。
そしてこの本は、あなたの部屋の本棚ならぬ本箱に収まることで初めて完成する。
架空のアンソロジーを編むというのは苦労するけれども、なかなか楽しい遊びだ。

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