目覚めるといつもより10分ほど遅い時間だった。
両手が痺れている。痛みはないが正座をしたあとの両足のようだ。これが薬の副作用ということなのだろうか。
妻はこんな状態で日々を過ごしてきていたのかもしれないと思った。
手足に力が入らない。
まずい。このままだと妻を強制的に病院へ連れて行くことすらできないではないか。
自分の心が持つかどうか少し不安だが、今日と明日は薬を飲むのをやめようと思う。
妻の様態は昨日とそれほど変化せず。
陽性の症状は治まってきたのではないかと思うのだが、生憎と病院は休みで相談できるところがない。駄目で元々で精神保健センターに電話をかけるが、いつまでたっても話中でつながらないのであきらめる。たしかに、ここで相談に乗ってもらって、今日ここまでくることができたわけだから、相談できるところがあるというだけでもありがたいということはわかってている。しかし、もう少し人と回線を増やしてもらってもいいのではないかとも思ってしまう。
妻からのメール。
わりと有意義な一日を過ごしていたようで安心する。この調子が続くのであればいいなと思う。
帰宅。
妻の様態は昨日と同じ、変化はあまり無いようだった。
しかし、現実はとても厳しかった。夕食を食べていると突然妻がこう言った。
「また、変な脳って言った」
やはり薬を飲み続けていなければいけないのだ。
妻の言動はどんどんエスカレートしていく。
「今日は○さんが出かけてからずっと声が聞こえっぱなしだったし、ずっと手がピリピリしている。両手がピリピリしていているから料理だってまともに作れないのよ」
うなづいて、妻の言葉の隙を狙って、なだめ、そして気持ちは良くわかるといい、なんとか落ち着かせようとするのだが、今夜は手強かった。
「○さんの顔をみているだけでイライラする。朝、○さんが出かけると一人で不安になるけれど、夜になると○さんが帰ってきて安心するけれども、誰にも八つ当たりできないから○さんに怒りをぶつけたくなる」
「僕にぶつけるんだったらいくらでもぶつけていいよ」
妻は一人っきりで苦しんでいるのだ。
「もう怒鳴り込んでやりたい」
非情にまずい。
言葉ではもう押さえきれないかもしれない。
「俺を信じろ」
半分泣きそうになりながら、自分の胸をたたいて叫ぶ。
「俺を信じろ」
妻の表情が少し変化した気がした。
が、妻は想像以上に頑固だった。
本に書いてあった、患者への語りかけの言葉を思い出し、ひたすら落ち着かせるが、妻の攻撃力は全然衰えない。
「もう誰も信じない。信じない方が楽だよ」
「耐えきれなくなったら、誰にも言わずに何処か知らないところへ行ってのたれ死ぬからいい!」
どんどんとエスカレートしていく。
「何処かへ行ってしまったって、草の根分けたって探し出してやるよ」と私は言う。
何処まで私の言葉は届いているのだろうか。少しでも届け。
しかし、溜まっていたものを一通り吐き出したせいか少し落ち着き、風呂に入ろうとする。
チャンスだ。そう思った。
妻が風呂に入ったと同時に、妻の薬袋からリスペリドンを一錠取り出し、妻の飲みかけのお茶の中に入れる、必死の思いで溶かそうとするが半分くらいまでしか溶けない。しかも濁りだした。
何か他に代わりはないかと台所にあった鍋の蓋を開けるとみそ汁が残っていた。残りの半分を砕き、みそ汁の中に入れる。妻は翌日の朝にこのみそ汁を飲むはずなので、明日は少し大丈夫になるかも知れない。
薬を溶かした湯飲みを覗くと濁ったままだった。しかたなく中身を流しに捨てる。
風呂から出てきた妻に、休み明けに脳波の検査をして貰いに行こうという。
「脳波を見て貰って私の頭がおかしいってわかったらどうするの」と妻は言う。
「おかしいかどうかじゃなくって何かわかるかどうかだよ」
全然答えになっていないし、辻褄もあっていない返答だが、理屈で答えちゃ駄目なのだ。
「脳波を調べて、問題なかったらどうするの」
「その次は聴覚だ」
「その次は」
「その次はまだ考えていない。けど、何かわかるはずだよ」
理屈無しに説得させるのはもの凄く難しい。
「コンサートには行ってもいいから、一つだけお願いがある」
「なに」
「今日と明日だけは薬を飲んで」
「やっぱり、そうくる」
今まで築いてきた信頼関係が音を立てて崩れていく。
妻は半錠だけ飲んでくれる。
「もう、○さんのことなんて絶対に信用しない」
さすがにもう私も限界だった。
ぶち切れる前に、梅酒をコップ一杯飲んで、「もう寝る」と言って布団に入る。
「○さんが先に寝てしまうなら私はまだ起きている」
などと言っていたが、しばらくして布団に入ってくる。
「ねえ、木曜日は何処の病院に行くの」
寝た振りをする。下手に答えて、勝手に病院を調べ上げられ、妄想をふくらませられてしまっても困るからだ。
しばらくして、妻の寝息が聞こえる。
明日は平穏がありますように。
自分の為に祈ってしまった。
深夜、妻が何か言う。何を言っているのかよくはわからなかったのだが、苦しんでいることだけはわかった。
経過報告18
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