俺たちはさつさと家へ帰るべきだが、ここらで誰かの口車に乗せられちまうかもしれないな。
だからっ、誰かの口車に乗せられちまうかもしれないな、って言ったんだよっ!
唯一無二の作家、ラファティの初期長編。
十年続いた戦争が終わり、主人公はみんなに寄り道をして帰ろうと提案する。そして上記のセリフをのたまうのだ。
ラファティがどんな作家なのかご存じの場合、もうこれ以上なにも語ることはない。いつもどおりのラファティの話なのだ。
逆にラファティがどんな作家なのかご存じ無い場合、これはちょっと困ってしまう。宇宙一のほら吹き爺さんと言ってしまえば簡単なのだけれども、顔だけ見れば小柄なおじいちゃんとといった感じなのに体の方は顔に比例しない太ったデブという、本人自体がほら吹きみたいな体である。いつまでも生き続けていて死ぬことなんかないんじゃないかと思っていたのだけれども、さすがにそこまでは無理でした。そういう点では山田風太郎と同じかもしれない。
最初は五隻の宇宙船で出発するけれど、最後の方では一隻になってしまう。ようするに、どんどん死んでいくのだ。とにかく死ぬ。豪快に死ぬ。主人公を含め全員一度は死ぬ。主人公が死んでしまったら話が続かないじゃないかと思うかも知れないけれど、そこはほら吹き爺さんのほら吹きたるゆえん。豪快に辻褄を合わせて話が繋がる。
しかし、極めつけは世界を支え続けている男の話。なんとこの男は、世界のありとあらゆる物を知覚することで世界を存続させているのだ。つまり世界はこの男に観測され続けることによって初めて存在する事ができる。男がうっかり薔薇の香りを忘れてしまうと臭いのしない薔薇が生まれてしまうというのだ。
主人公は、この男がトイレに行きたいからというのでトイレに行っている間、男の代わりに世界を観測し続けてあげるのだけれども、世界を支え続けるためには不眠不休、瞬きさえもできない状況におかれてしまう。主人公は決死の思いで世界を支え続けるのだ。
そんな馬鹿なって?
そう、だからほら話なのである。
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