書店で異様に分厚い本を見かけた。片手ではつかめないほど分厚いのだ。おおおよそ18センチほどあっただろう。
タイトルは「フィリップ・K・ディック評論集」、1280ページ程のページ数だ。
ディックが書いた評論をまとめたものではなく、ディックの書いた本に関して書かれた評論を集めた物らしかった。物らしかったというのは手にとって中身を確かめようとしたところで目が覚めたからだ。18センチ、1280ページもありながら異様に軽かったところまでは覚えているのだが、出版社も値段もチェック出来なかったところが少し悔しい。
今すぐ寝れば、続きをみることができるかもしれないと思い、すぐさま眠りにつく。
気が付くと、○○○○殺人事件に巻き込まれていた。○○○○には某俳優の名前が入るのだが、検索サイトに登録され、○○○○で検索されてこの記事を読まれても、訪れた人もわたしも、あまりうれしくないので○○○○としておく。
ドラマの世界のような感じでもあるのだが、わたしにとってはその世界は本物の日常世界だった。なのでスタッフも監督もカメラも存在していない。しかし、心の何処かでは、この世界はドラマの世界かもしれないという認識はしていた。
○○○○が殺される変わりに別の人物が殺されるのだが、雰囲気的にはこの次は○○○○が殺されるっぽい情況になっている。これがドラマだとすれば○○○○が殺される可能性は極めてゼロに近いのだが、かといって殺されないままでは題名に偽りありでドラマとして成り立たない。
ドラマではないのにドラマ的な思考をしつつ、どうなるのかと思っていたら、亡くなった人物を殺したのが○○○○だったというオチになってしまった。○○○○が殺人を犯したので○○○○殺人事件という題名になったのだ。
無難なところに落ち着いたなあと思ったところで目が覚めた。所詮はわたしが見る夢である。斬新な結末など思いつくはずがなく、この程度のオチになっただけでもましだと思わなければいけないだろう。
気を取りなおして、もうひと眠りしようと思ったが、もう起きなくてはいけない時間だった。
ひょっとしたらこれも夢なのかもしれないと思いつつもしかたなく起き出し、仕事へと出かける。
仕事をしながらも、ひょっとしたらこれは夢の中の出来事かもしれないと考える。
しかし、夢からは覚めそうにもない。そろそろ、これが現実であることを認めなくてはいけないようだ。
アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレムの『死刑囚』を読み終えて今度はずっと積読のままだった紀大偉の『紀大偉作品集「膜」』を読み始める。二年も放置していたのだ。
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