読書は贅沢か

趣味は何ですかと聞かれると、ほとんどの場合は「読書」と答える。
必ずではなく「ほとんど」なのは、「本を集めること」と答える場合があるからだ。
とりあえず、趣味は読書ですということができる程度には本を読むのだが、今までに読んだ本の冊数と買った本の冊数とを比較すると、買った本の数のほうが多い。
ようするにいわゆる積読と呼ばれる状態である。
もちろん、読んでみたいから買うのであって、未だに読んでいない本であってもいつかは読みたいと思っているのは間違いない。
しかし、読むためには、いや一冊の本を読み終えるためにはただ単純にページに書かれている文字を読めばいいというものでもない。そこに何が書かれていて、あるいは何が書かれていないのか、さらにはそこに書かれていない何かさえも読み取らなければならない。もちろんそこまでしなければいけない本ばかりではないけれども、一冊の本を読み終えるためには時間がかかる。
つまるところ、読みたい本の数にくらべて読むスピードが追いついていないのだ。
数年前から、電子書籍が普及されてきた。電子書籍の実態は紙に書かれた文字ではなく単なる電子データである。だからそれを読み取るためには何らかの手段でもって、人間が読むことができる文字に変換された状態にしなければ読むことができない。その点でいえば電子書籍も紙の書籍と同じではあるけれども、電子データの状態のまま脳にインプットすることができるのであればあっという間に読み終えることができるのではないかと妄想することもある。
もちろんそれは単にデータの保管場所を脳の中に移し替えただけで、中身を理解したというわけではないけれども、近い未来か遠い未来か、データを脳の記憶領域の部位に理解したと認識できるような形でデータを入力することができるようになれば、読んだと同じことになるのではないかと思っている。
でも、そうする事ができるようになったとしても多分そういうことはしないだろう。本を読むという行為は僕にとってはそこに書かれているものを理解するということだけではなく、理解することができるという感覚やそこに至るまでの感情、そういったことも含めてが読書だからだ。
そう考えると本を読むというのは自分が思っている以上に贅沢な行為であって、未だ読んでいない本が多数あるというのはものすごく幸せな状況なのだと思わなくてはいけないのだが、目の前に積まれた未読の本の山を見ていると、そんな気持ちにはさっぱりなることができない。

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