アメリカが南北に別れて戦争をしていた時代。
戦うのは男たちばかりだったはずなのだが、男に扮して戦った女性もいたらしい。にわかには信じがたいことなのだが、数百人から数千人近い女性が男として偽って、戦っていたのである。
この本の主人公もその一人で、農夫の妻であり、どちらかが兵士として戦いに行かなければいけなくなったとき、自分のほうが体力もあり、力もあり、兵士として戦うことができるという理由で男として北軍の兵士として戦うことを選ぶ。
漢字がすくなくひらがなを多用した翻訳文体は、彼女が学のない農夫であることを端的に表している。
少し前に読んだ田中小実昌のエッセイで、彼の翻訳もひらがなが多かったのだが、その理由が、翻訳の師匠からそういうふうに翻訳すればいいと言われたことと、それ以前に彼が漢字を知らなかったためだということが書かれていた。そんなひらがなを多用した田中小実昌の文体を、かつて、野坂昭如が新しい表現だと褒めていたが、実際は漢字を知らないだけだったことを知ってがっかりしたらしい。
もちろん、この本がひらがなを多用しているからといって訳者の柴田元幸が漢字を知らないせいだなんて言うつもりはないのだが、そんなことを思い出した。
それはさておき、男装した女性が兵士として戦うという設定でありながら、エンターテインメントな物語ではないので、そういう方向への期待は裏切られる。
腕っ節は強く、銃の腕前もすごく、兵士として活躍するけれども、すでに亡くなった母親と頭のなかで会話したり、故郷の夫と手紙のやり取りをし、夫への想いに焦がれる日々を送っている。
戦いとなれば躊躇なく敵を殺すのだが、殺伐としているわけでもなく感傷的になるわけでもない。
おそらくはそういった感情を彼女は認識してはいないのだろう。
だから彼女の視点の文章からもそういった彼女の心の奥深くの感情は現れることはしない。
敵に捕虜として捕まったり、瘋癲院に入れられたりと悲惨な目にあいながらも、彼女は朴訥と生きていく。
そして終盤、愛しい夫の待つ我が家へとたどり着くのだが、そこで悲劇が待ち構える。
ここまで来てそんな悲劇が待っているなんて、と読み手としては切ない気持ちに襲われるのだが、多分、彼女はその悲劇を悲しみとして受け入れながらも、その悲しみの深さを認識するところまではいかないのだろう。
多分、それがこの物語の唯一の救いなのかもしれない。
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