北村薫と宮部みゆきによる『名短篇、ここにあり』がそうだったが、こういう機会でないと読むことのない作家・作品だったので読んでみることにした。
『名短篇、ここにあり』はタイトルどおり、編者が名短編と思う短編を集めたものに対して、こちらは小川洋子が偏愛している短編を集めたものだ。しかし、偏愛だからといって駄作が収録されている可能性は低いはずだ。
自分の好みと世間での評価とのバランスの具合をどのようにとっているのか気になるところだが、この本に収録されている短編で読んだことのある作品はまったく無いのでその点に関しては判断することができない。
ミステリが好きなくせに江戸川乱歩の「押絵と旅する男」も未読なのだ。
そんなわけで『名短篇、ここにあり』を読んだときにも感じたのだが、自分のようなものが、こういう本を読んでもいいのだろうか、ちょっと場違いな場所に来てしまったんじゃないだろうか。まったく知り合いのいないパーティに参加したときのような居心地の悪さを感じつつ読み進めた。
冒頭の一作は内田百閒の「件」。「件」というと小松左京の「くだんのはは」が僕にとって初めての出会いで、「くだんのはは」の「件」も、それ以降に出会ったさまざまな「件」達も不気味さと悲しさがあったのだが内田百閒の「件」は可笑しさがありちょっと変っていた。
三浦哲郎の「みのむし」はタイトルからは想像することの出来ないほど暗い物語で、読者は入院中の主人公が余命幾ばくもないことを知っているのだが主人公はそれを知らない。医者の最後の計らいで、主人公にとっては最後となるのだがそうとは知らず一時帰宅の許可がでて喜ぶ主人公が帰宅するまでの話で、主人公のその喜びは次第に絶望に変化する。そしてタイトルの意味が判ったとき、騒然とするのだ。
谷崎潤一郎の「過酸化マンガン水の夢」はノンフィクションに近いフィクションで、映画版のほうになるけれどもボワロー&ナルスジャックの『悪魔のような女』のあらすじがネタバレ状態で書かれていたのに驚いた。
宮本輝は直木賞の選考では毀誉褒貶ある人だが、「力道山の弟」は面白い。主人公のキャラクター造詣も愉快なのだがその父親の造詣もすばらしい。
島尾伸三「彼の父は私の父の父」は島尾伸三が島尾敏雄の息子であること、そして母親が島尾ミホであることを知ったうえで読み直すと異様な物語というか、なんなんだこの一家はという気持ちになる。
向田邦子というと『寺内貫太郎一家』しか読んでいなくって、僕にとっての向田邦子というのは『寺内貫太郎一家』のような話を書く人という印象しかなかったので、「耳」を読んで驚いた。切なくって悲しくって滑稽で、向田邦子はお父さんという存在を描かせたら天下一品なんじゃないかと思った。
田辺聖子も実は一作だけ読んだことがあって何を読んだのかといえば、『お聖どん・アドベンチャー』だ。田辺聖子のおそらくは唯一のSF作品で、近未来を舞台にし、筒井康隆や小松左京が登場する。筒井康隆や小松左京が登場するので読んだわけだが、さすがにこの本が田辺聖子の中でも異質な存在だろうことは理解していたので、「雪の降るまで」を読んで、こういう世界を描く人だったということを初めて知った。なんかいいな、このゆったりとした会話とこの世界は。歳を重ねることは楽しいことかもしれないってことか。
最後に控えているのが吉田知子の「お供え」。これまた初めて知った作家なのだが、ちょっと衝撃的だった。
ある日、主人公の家の前に花が供えられる。まるで事故現場に供えられた花のようで、主人公は不気味に思い、その花を捨ててしまうのだが、翌日になると新しい花が供えられる。犯人を見つけ出そうと見張っていると姿を現さない。そのままにしておくと花はそのまま。無くなるといつのまにか誰かが供えるのだ。そして次第に供えられる花が豪勢になっていく……。
シャーリイ・ジャクスンの「くじ」を彷彿させるような話でもあり「奇妙な味」の短編だ。
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