だいぶ甘く、そして切ない話だ。
『チャイルド44』の時の殺伐とした情況と比べると、ソビエトという国そのものも変化をし殺伐さが薄れてきたせいか、主人公も感傷的になっている。妻をスパイとして告発しようとしたり、自分は本当に妻を愛しているのだろうかと自問していた時とは大違いだ。もっとも、国家というものに対しての揺るぎない信頼もなくし、自分の唯一のよりどころとなるものが家族だけとなってしまったいじょう、それも仕方がない。
しかし作者は主人公に、最後のよりどころさえ奪ってしまう。それはもう一度主人公を動かす為にはこれ以上ない酷い仕打ちで、読んでいて気分が滅入ってしまった。
今回は、時間的な経過を含めて上下巻というボリュームで語ることができる以上の物を詰め込んでしまっているせいか、あちらこちらで構成のひずみが出ているけれども、主人公を動かす物語の駆動力は大したもので、無条件に最後まで読ませてしまう。
そして、主人公が事件の真相を知る者として最後に対決する人物が印象に残った。主人公の娘に「恐ろしい男」と評される彼は、自分の妻が自分を愛していないことを知っており、そして自分自身も妻を愛していない。しかしそれでも彼は妻を見捨てることはしない。何故なのだろうか。そしてその理由こそが彼が「恐ろしい男」である理由だ。
主人公レオは『チャイルド44』で、妻のライーサが自分と結婚したのは、プロポーズを断れば自分が死ぬかも知れなかったからだいうことを知る。ライーサは愛しているからレオと結婚したわけではないのだ。そしてレオとライーサの夫婦のあり方は「恐ろしい男」と同じでありながら微妙に異なる。二組の夫婦はどこが異なっていたのだろうか。
この二組の夫婦のあり方を、僕は自分の境遇と比べてしまう。
僕の妻は具合が悪くなると僕のことを非難する。もちろんそれは非難されても仕方のないことを僕がしたからだ。僕が妻にしたことは、妻を強制的に精神病院へと入院させたことだ。
自分が病気であることを理解せず、治療をしようともしない妻に対して、僕ができることは妻を入院させることだった。
そう、それは僕の視点からしてみれば正しいことであったし、おそらく大部分の人から見てもそれほど間違ったことではなかったはずだ。
でも、妻の視点から見れば、それは正しいことではなかった。
精神病院に突然入院させられるということは妻にとっては恐怖以外の何物でもない。僕が妻を入院させると決めたとき、悩む僕に妻の主治医は、治療が進んでよくなれば逆に感謝してくれるようになると言ってくれた。
しかし、現実は違った。
だからといって主治医を恨んだり、嘘つきと罵ったりするつもりはない。妻にとっての苦しみは、妄想や幻聴に悩まされることよりも、自分が精神病院に入院させられそして障害者となってしまったことに対する悔しさの方が大きかっただけなのだ。
妻が僕のことを非難するとき、別れることができるのであれば別れたいという。妻が僕と別れないでいるのは、生きていくためには僕と一緒にいるしかないからだ。一人で生きていく術が見つかれば、妻は別れるだろう。
もちろん、人の心というのは損得勘定とか、好きか嫌いかとかで割り切ることができるほど単純な物ではない。
しかし、僕と妻はレオとライーサなのだ。そして同時に「恐ろしい男」とその妻にもなり得る。非難され続ける日々を送ることは辛い。そうならない為の道はどこにあるのだろうかと思う。
でも、はたして僕にはそういう道を見つける資格があるのだろうか。
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