いつの間に寝てしまったのだろう。
横にいる妻の気配を探ると、寝息が聞こえる。
妻も眠ってくれたようだが、私が先に寝ってしまったのかもしれない。眠る前の話し相手が欲しかったかもしれないことを考えると薬を飲むんじゃなかったと思ってしまう。
薬のおかげか、吐き気は少し治まっているが、体調はよくない。
今日は釣りに行く日なのだが、自分の体が持つのだろうか。
昨日買った栄養剤を飲み、これが少しでも効いてくれることを祈る。
妻は職場に辞めることを電話している。
退職届を書いて欲しいから今日の三時過ぎにきて欲しいと言われたらしく、行かなくてはいけない。せっかくの日なのになんてことだ。
月曜日であれば、事前に私が先方に、妻の容態に関する事情を説明しておくことができたのだが、いきなりなので何もできない。何事もなければいいのだが。
トイレから出ると今度は妻は、実家に電話をしている最中だった。
替わって欲しいとのことで電話を替わり義弟と話す。妻を入院させることは秘密にしておくつもりだったが、できればスジは通しておきたい。投薬に関して探りを入れると、
「病院は患者を薬の実験に使うから止めたほうがいい」という返事。
義母も同じような考えだ。
陰謀論に毒されている人たちだと思うが、普通はそのように考えても仕方ないだろう。
私だってあまり病院にいきたくないし、薬も飲みたくはない。私は痔の治療で、塗り薬のほかに飲み薬も飲んでいるけれども、感覚的に塗り薬は効果があることはわかるけれども、飲み薬が痔に効果があるとは信じがたい気持ちでいる。
ひどい痔なのですぐに効果があるわけでもなく、効いているのか効いていないのかさっぱりわからない状態ではいるけれども、できるだけ飲んでいる。できるだけというのはたまに飲むのを忘れてしまうからだ。
もっとも、私のほうが薬に洗脳されてしまっているのかもしれない。医学に頼り切っているのだと。
しかし、医学を信じることができなければ、何を信じればいいのだろうか。
妻が、先にお墓参りに行きたいというので、花を買って、私の父方と母方のお墓参りにいく。
花を買う店の駐車場で、妻の前を車が通り過ぎる。
このまま轢かれてしまえば……。
とっさに思ってしまったのは仕方ない。心が弱いことは自覚している。
この先何度、そんなことを思ってしまったとしても、そんな考えを叩き潰して乗り越えていくしかない。
タバコを禁煙したときと同じことなのだ、吸いたいという気持ちが起こるのは仕方ない。それに負けなければいいのだ。そう思うことにした。
お墓参りは神社ではないのでお願いするなど論外なのだが、おじいさんとおばあさんに、妻のことを助けてくださいとお願いしてしまう。
妻も何かお願いしてしまったようだ。私のことを守ってくださいとお願いしたのだろうと思った。
釣具屋へ向かう途中で妻が、今回の引越しのとき、原因は私にあるのだからこの先の不幸は私がすべて引き受けますから、○さんに与えないでください。とお願いしてしまったから、こうなったのかも知れないとポツリともらす。
だからこの間、身代わり不動に二人でおまいりにいって少し安心したの、と言った。
釣具屋に着き、どんな竿を買えばいいのか悩むかなと少し心配するも、初心者向けの手ごろな値段の釣り竿があったのでそれに決める。今度は餌で途方に暮れるが、オキアミがあったので、それでいいかと、購入する。
何かが釣れればいいのだけれども、成果より釣るという行為のほうが大切なのだ。
途中で朝食兼昼食を買い、河口へ。
妻は普通に中華丼を買い、おいしそうに食べたのでホッと一安心するが、私はおにぎり二つで、しかも、一つ食べるだけで、吐きそうになる。
日差しが強かったのに、帽子を持ってこなかったのが大失敗だった。妻には麦わら帽子があったので、妻の体の心配はそれほどしなくてもよかったのだが、自分の体の心配が最優先事項となってしまった。とりあえず、きれいな雑巾を頭にかぶせ、水分を補給しながら、体調維持に励む。
日差しが強くなりすぎたので、車の中で、涼もうと妻に言う。そろそろ私の限界だった。
妻はもう少し釣りたがっていたのだが、素直に従ってくれる。コンクリートの壁を先に上り、手を伸ばした妻の両方の手を両手でつかみ、引っ張りあげる。なぜか妻は体をひねって後ろ向きにしりもちをついた状態で壁の上へ。
「なんで、そこで回転してしまうんだよ」と、なんとなく妻らしいしぐさに笑ってしまう。
車の中で、妻は賃貸情報誌を眺め、新しい引越し場所を探し始める。
私は、目をつぶりながら、妻の話に相槌をうつ。
悩み続けていたが、意を決して、木曜日のことを話す。
あくまで緊急避難ということで、今回のことを知人に調べてもらっていて、危険の可能性があったとわかった場合、安全な場所へ避難する可能性があると、話す。
どこまで理解してもらえたのかわからないが、話しながら、妻の不安を増長させる結果になってしまうのではと不安になる。
「○さんが私をそういうところに入れてしまっても、仕方ないと思うことにしているわ」と、妻が言う。
妻はうすうすわかっているのではないのだろうか、そう思ってしまう。
そうするつもりならばとっくにそうしてしまっているよ、とできるだけ安心させようと努める。
できることならば、正直に話し納得してもらって、穏便に病院へと連れて行きたい。
時間がきたので、妻の勤め先へと車で向かう。妻に運転を任せていたら、道を間違え、意味もなく有料道路に乗ってしまい、そのまま料金所へ行ってしまう。しかも逆方向だ。
これが十年後にでも笑い話になればいいねと言うが、妻は少しお怒りモード。
妻の職場で、二日で止めてしまったのは最短記録だ、社会人なら自分が務まるかどうか自覚を持って望むのが普通だろう、というようなことを言われ、妻は落ち込んで戻ってくる。
きわめて正論なのだが、腹がたってくる。私が怒っていると妻の怒りや落ち込みは少し治まってくれたようだ。
気分を入れ替えてまた釣り場へと戻る。
潮がだいぶ満ちてきたので、今度は別の場所で釣りを開始する。
妻の姿を携帯のカメラで撮る。妻は写真嫌いなので、私がこっそり撮る妻の姿はいつも後ろ姿だ。
潮が中途半端に満ちてきたので、場所移動することにする。
最初に私が壁の上に上がり、差し伸べられた妻の両手をつかんで引っ張り上げる。
途中で妻はくるりと180度回転し、またしりもちをつく形で壁の上へ。
なんでそうなるんだろうかなあ。
場所を変えたからといって釣れるわけもなく、しかも初心者なうえに最初から釣りあげようとする気などなかったので、オキアミを魚に食べさせただけで終わった釣りだったが、意外と楽しかった。
暗くなり始めてきたので帰宅する。
「○さんと話をしているだけなのに、介入してきて腹が立つ」
帰り道、妻が言い出す。
「変な脳」
相手は妻の頭の中に対してそういい続けているらしい。
「起きている間中、声が聞こえ続けていると気が変になりそう」
「○さんにはわかってもらえなくってもいい」
「頭を壁に打ち付けてでもこの声を消したい、でもそれで死んでしまったら悔しいじゃない」
否定することもなく、できるだけ肯定しないようにうなづちをうっていると、
「そんなにうなづかないで」と妻が叫ぶ。
「○さんが私の話を聞いて、うなづいてくれるのは本当にうれしいけれど……」
と妻の言葉が途切れる。
肯定しすぎてしまったのだろうか。
ひょっとしたら、妻は幻聴を幻聴と理解している部分があるのかもしれない。
「話を聞いているからうなづいているだけで、その内容を肯定したりしているわけではないよ。間違っていることは間違っていると言っているだろ」
妻の叫びの理由は、わからないままだった。
しかし、自分の頭の中で聞こえる音と現実の音との区別が困難になっていることは理解することができた。
帰りに寄った家電量販店で、妻はHEROSシーズン3のDVDを見つけ、私を捕まえてうれしそうに裏面の内容を読み上げる。
先に内容を見てしまったらつまらないだろうと言いつつも、いつもと変わらない妻の行為に幸せを感じ、そして妻の朗読を楽しむ。
帰宅し、先に風呂に入り、そしてテレビを見ながら夕食。
テレビでは世界遺産の旅をやっている。
新婚旅行で行ったモン・サン=ミシェルだ。
「あのときは、忘れないように頭に焼きつけるつもりだったので周りの人なんかぜんぜん気にならなかったわ」
と妻が言った。
「記憶が色あせても、時々写真をみて取り戻しているの」
「また行きたいね」
私も妻の言葉に同意する。
今も妻の頭に声が鳴り響いているのかわからない。しかし、こんな普通の会話をしているのだから、入院などしなくっても大丈夫じゃないのか?
一錠しか飲んでいない薬でも少しは効果が出ているんじゃないのか。
心がくじけそうになる。
「変な脳」って言った。
突然の妻の言葉に世界が暗転してしまう。
「○さんと話しているのに介入しないでよ」妻が言う。
なだめすかしながら、薬を飲ませようとするのだが、
「薬なんてどうでもいい。私を薬漬けにしたいの」
「いや、そうじゃなくって、起こる気持ちはわかるけど、まずは落ち着かないと」となだめる。
ひたすらなだめて、落ち着いたところで、
「もう寝ようか、布団の中で話をしよう」と妻にいう。
今日のところは薬はまあいいか、と思う。飲まない状態でどういう風になるのか確かめてみるのもいいかもしれないと考える。
「なにか物音がした」と妻が起き上がる。
そのまま妻はトイレへ。
風呂場の戸を閉める音が聞こえる。
「○さん、お風呂と洗面台の鏡が合わせ鏡になっているの気づいていた?」
つくづく、悪いことに気がつく妻である。
肯定するか否定するか悩むが、
「迷信だよ。床屋で後ろの刈り方を確認するのにだって合わせ鏡になるだろ」
半分寝ぼけているおかげか、なんとなく合わせ鏡が何事でもないことを納得してくれる。
まあ、私だって迷信であることは理解しているが、あえて合わせ鏡をしたいとは思わないので妻の不安な気持ちもよくわかる。
「冷蔵庫から変な音が聞こえる」
薬を飲まないのはやはりまずいことだった。
頭を振り絞って納得してもらえそうな理屈を組み立てる。
「もう長いこと使っているし、引越しのときに動かしたから音が変わってきているんだよ」と言う。
「そうかもしれないわね」
寝ぼけているのか、やけに素直なのだが、こちらの身が持たない。
「私、いびきをかいている?」
「たまにかくよ」
「じゃあいびきもあの人たちに聞かれているのね、夢だって盗み見されているのに」
頭をフル回転させろ。
「意識の無い間のことはわかるわけないよ。自分が知らないことは他人だって知らないだろう。夢だって見ているという意識がないのだから盗まれているわけじゃないよ」
「よくわからないけれども、そうなのかしら」
とりあえず、今夜は素直である。
経過報告16
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