相模原で起きた事件は未だに僕の心のなかで尾を引いている。
いや、この事件だけではない。この手の事件が起こるたびに僕はいろいろと考えてしまう。僕のように障害者を支える立場の人間は何かを書かねばいけないのだろうと思うのだが、うまくまとまらない。
今回、犯人の犯行動機となった思想背景というのは優生思想で、その基準は自分の判断が正しいという自分勝手な基準に基づくものだった。
弱者は生きる価値がないのであろうか。
生かされてはいけないのであろうか。
少し前に読んだ記事で野菜の種に関する事柄があったのを思い出した。
いま、僕たちが普通に食べている野菜は子孫を残すことができない野菜が多い。交配種、F1野菜と呼ばれるものだ。
F1種を問題視している人たちがいる。
多様性が失われるという問題、種子会社による寡占という問題。その一方で、子孫を残すことのできない野菜は危険だという論調がある。
僕はF1種が危険なのかどうなのか判断するだけの知識はないので、F1種の問題に関しては何もいうつもりはない。しかしその一方でこう思うのだ。
子孫を残すことのできない野菜は果たして本当に危険なのだろうかと。
子孫を残すことのできない存在は生物学的に不自然な存在だから危険であるというだけの理由で危険視しているのであるとしたら、同じ理屈は人間にも当てはまるだろうと思う。
子孫を残すことのできない人間は生物学的に意味のない存在なので、死んでも構わない。
肉体的には子孫を残すことができても、同性愛を選ぶ人間は、子孫を残すつもりがないので死んでも構わない。
子孫を残す役割を終えた年老いた人間は死んでも構わない。
生物学的に不自然な存在は困っていても助ける価値はない。
子孫を残すことのできない野菜は危険だという人たちは、根底では人間に対しても同じようなことを考えているのではないのだろうかと思ってしまう。
大半の人はそこまで深くは考えていないのだろうけれども、子孫を残すことのできない生物は不自然であるという考えは人間にもそのまま適用することが出来る。
どうしたら僕はそういった考えを全力で否定できるだろう。
生まれてきたことに意味などなくてもいい。
生まれてきたのだから生きればいいのである。
それは全ての人に平等で、だから、平等であるために考え続けている。
助ける理由

コメント
うぅぅ、難しい‼
本当は、助けるのに理由など必要ないのだと思います。
でも、ここに書いたようなことで悩んでしまうというのは自分を含めて心のなかに差別の種子があるからだと思います。