羊と鋼の森 宮下奈都

桜木紫乃の『ブルース』と柚木麻子の『ナイルパーチの女子会』と一緒に買ってしばらく積読にしたままだった。
でさてそろそろ読もうかと思いこの三人のどれから読もうかと考えたところで一番重苦しそうな桜木紫乃の『ブルース』を読み、予想外に重苦しくなかったのでこんどは爽やかなことが想定される宮下奈都の『羊と鋼の森』にとりかかった。
事前の予備知識などなく、とりあえず本屋大賞受賞したという程度しか知らなかったので読み始めてピアノの調律師の話だと知って驚いた。しかも宮下奈都の小説なので女性が主人公だと思っていたら男性だった。
ピアノの演奏者が主人公となる物語はたくさんある。一方で調律師が主人公の物語は存在しないのかといえば、そんなことはなく、荒川三喜夫の漫画『ピアノのムシ』なんかがある。『ピアノのムシ』の主人公は調律師としての腕前は一流だけれども性格に問題があるという設定で、手塚治虫の『ブラック・ジャック』、加藤唯史・剣名舞の『ザ・シェフ』、細野不二彦の『ギャラリーフェイク』などに連なる系譜の物語だ。
一方、この『羊と鋼の森』の主人公はというとそれとは正反対で天才的な腕前など持っていない。
高校生の時に学校のピアノの調律に立ち会い、その調律によって変化した音の世界に魅了され、調律師を目指すことにした主人公。調律の学校を卒業して、自分を調律の世界に導いてくれた調律師のいる会社に入社することに成功する。
しかし、主人公を魅了した調律師は天才といわれているけれども、主人公は彼ほどの腕は持っていない。最低限の調律師としての技術は身につけたが、数多の音の中から依頼者の求める音をつくりだすことができない。
ではその葛藤の物語なのかというと必ずしもそうではない。そこがこの物語の面白い部分で、主人公の苦悩を描かない。いや、主人公自身が苦悩をしていない、というか苦悩を感じさせない。かといって作者の技量がなくて読み手に伝わってこないというわけでもない。
無色透明、というか無垢というべきか、不思議な主人公像であり、主人公を見つめようとすると、彼の姿を通り抜け、その向こうの世界が見える。
いつのまにか自分自身が調律師となり、主人公の抱えている悩みを自分のこととして悩み、そして主人公が見ようとしている世界を自分の見ようとしている世界として捉えている。そんな物語だ。

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